“手書き”の楽譜しか受け付けない作曲コンクールに思う事

「JFC作曲賞コンクール」は今年で8回目を迎え、今度11/25にトッパンホールにて本選会が行われます。このコンクールの特徴は、何と言っても“PCを使わずに手書きで書いた楽譜”のみ受け付けるという趣旨のもと、公募が行われる点にあります。

“楽譜を書く”というのはとても骨の折れる作業で、特に25段前後ある管弦楽オーケストラや、30段の吹奏楽スコアを手書きで書くとなると、1ページ仕上げるのにも数十時間を要します。近年FinaleやSibeliusなどの楽譜作成ソフトの台頭によって、その作業効率は劇的に改善し、作曲家が多くの“チャンス”を得る事に繋がりました。

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しかし同時に“ただ音符を入力するだけ”の「安易」な楽譜が出回る様になった事も事実で、このコンクールではその様な“創造性”に乏しい作品を排除したい考えであるのだと思います。この趣旨に対しては、私も一定の理解がありますが、しかし現代技術の一斉排除を謳っているとなると、首を傾げたくなる点もあります。

今回はこの点について考えて行きたいと思います。

世間の求める「即戦力」に対応できない

近年はお笑い芸人のブレイク、また疑惑や騒動などスキャンダルも含めて、一瞬で“爆発的”なブームになる一方、1~2ヵ月後には飽きられ、すぐに名前すら聞かなくなります。そんな現代においては、作曲家も次から次へと音楽を提供して行かないと、消費者の求めに応えていく事は難しいです。だからこそ楽譜作成にも「スピード」が求められ、ごく短い期間に作品を完成させる必要があります。

常にトレンドを追い求める「ファストファッション」が、色合いや柄に拘る一方で、生地の質に関しては一定水準に達していればそれ以上求めない事と同様に、旋律や和声・リズムに特段の拘りがあれば、その根本的な意義や楽譜の体裁についてはそこまで追求されない“ファスト化”した音楽こそ、世間のニーズと合致していると言えるでしょう。

職人技光る“ハンドメイド”の楽譜に一定の価値が付くのは、ごく限られた巨匠の作品だけです。

試奏に特化したプレイバック

ピアノ作品ならともかく、30段譜のフルスコアをピアノ試奏だけで完成に持っていくには、相当な技術と豊富な経験が必要ですし、上記の通り“ファスト・ミュージック”としてやっていくには無理があります。しかも東京五輪エンブレム“パクリ疑惑”に懸念の記事でも記載した通り、現代音楽は“複雑化”を強いられていますから、尚更です。

Finaleに搭載されているプレイバック機能や、その他各MIDIソフト等による試奏は、リズムや和声を機械的にチェックする事に適していますので、オーケストラなど「同時発音数」の多い作品には欠かせません。しかしその音質も「機械的」で、長時間聴いてると、不自然に安定し過ぎる波長が右脳に突き刺さる様で、不愉快な気持ちになりますから、あくまで「チェック」に留める様にしています。

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かの天才モーツァルトも、単純明快な3和音(3種類の音で構成された和音)の音楽が受け入れられていた時代だからこそ、作品の「量産」が可能だった訳で、果たして彼が現代の複雑な無調音楽においても、同様のパフォーマンスが可能だったかどうか、疑問に思います。

「個人」への敷居を下げてくれたFinale

こういう話をすると、決まって長老たちは口を揃えて「PCが無かった時代でも大編成の優れた作品が出てきた」と言い張るでしょう。しかしそれは、例えばオーケストラ楽団に所属しているとか、吹奏楽バンドのマネージャーで仲の良い知り合いがいるとか、その様に自作品をいつでも試奏してもらえる団体を持っているという、限られた条件、恵まれた環境があるからこそ成し得る事でしょう。

楽譜の清書に関しても、アシスタントを雇える一流作曲家や、パート譜作成を業者に依頼して数万円出せる富豪など、PCソフトを使用せずに「アナログ楽譜」を完成に持っていけるのはごく一部の限られた人だけです。IT技術の進歩は、個人作曲家に対する敷居を下げ、同時に多くのチャンスを与えてくれました。

“楽譜は絵画である”という考え方

美術館での絵画鑑賞の様に、額縁に入れられた楽譜が展示され、近くのボタンを押すとその作品の音が流れる…、もしこの様な楽曲作品発表があったなら、「へぇ~こういう音が出るんだぁ」と興味を持ちながら観て周る事が出来ます。しかし“演奏会”という場は、自由な鑑賞が出来る絵画展と違って、楽譜の閲覧が出来ない上、観客の時間を半ば強制的に預かる事に繋がりますから、その出てくる音に最大限重きを置くというのは当然の事だと考えます。

その「出てくる音」の質を高める為に、MIDIによるプレイバックの様な現代技術活用して最大限尽力する事は当然の事であり、「出てくる音が楽しみ」というのは、個人的な趣味の場ならともかくとして、公の場で披露する可能性のある作品に対しては、ある意味“無責任”だと個人的には思います。楽譜を“絵画”として捉え、作品を「美術」としての要素に重きを置くならば、その個展は時間の奪取の無い形にすべきではないでしょうか。

楽譜の目的

確かに、殺風景なコンピューター楽譜から「動力」や「生命力」は、感じる事が出来ません。またデジタル数値上の条件さえ合えば、誰が作成しても同じ譜づらになってしまいますから、個性も生み出せません。美しく清書された手書きの楽譜は、作曲家の誰しもが思っている理想の形でしょう。しかし上記の通り、理想と現実はかけ離れていますから、現代技術の恩恵に与る上で、出来る限りの「個性」を見出す工夫をすれば良いのだと思います。

私はFinaleで清書するにあたり、Finaleの初期設定のまま書き進める事だけは、避ける様に心がけています。例えばスラーの形であったり、アーティキュレーションの付く位置であったり、またページ番号や小節番号の仕様までも、初期設定から変更しています。これら変更の組み合わせだけでも無数に存在しますから、これだけでもオリジナリティは出てくるものだと信じています。

洗練された楽譜は、その読み易さがゆえ演奏者に活力を与え、優れた音楽を引き出します。楽譜は、演奏者に作曲家の意図を最大限伝えるための手段であって、“作品”としての「顔」ではない、というのが私の考えです。JFC作曲賞コンクールの趣旨に対しては「昔堅気な」と思う一方で、「ファスト・ミュージック」の伸展と価値の低下に警鐘を鳴らす重要なメッセージでもあると思います。現代技術を上手く使いこなして、少しでも理想に近い音楽を作り続けて行きたいですね。

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