大きな物議をかもし出している当パクリ疑惑に、芸術家の端くれとして色々と考えさせられています。佐野氏を擁護するつもりは無いですが、「五輪採用取り消し」となってもなお提訴を取り下げないベルギーのデザイナー側の姿勢には、納得出来ません。
勿論、佐野氏のこれまでに発表された過去の作品には、明らかに剽窃だと思われる様なものが幾つも存在していますから、疑われても文句は言えないでしょう。しかし「東京五輪エンブレム」に限って言えば、これをベルギー劇場ロゴのパクリと断定する事には、大きな懸念を抱いています。
そこで、この件を「作曲」に置き換えて考えて行きたいと思います。
0か1かで判断される時代
今回、Gooleの画像検索機能によって、誰もが「類似画像」を瞬時に検索できる環境にある事によって、ここまで次々とパクリ疑惑が浮上してきました。
非常に便利な機能で、おそらく素材の輪郭や色合いの一致数などから判別されるのだと思いますが、もしこれが今後「音楽」にも適用されてしまう事を考えると、作曲家の一味としては危機感を隠せません。例えば“ドレミファソ~”というメロディがあっただけで、たちまち何かに似てしまう、更にこれを転調させて“ソラシドレ~”と変化させても、ト長調の階名で読むと“ドレミファソ~”と変わりありませんから、避けようがありません。
そして発表するや否や、世界のどこかで「類似」と判断されれば、瞬く間にネットワーク上に拡散して、世界中から一斉にバッシングを浴びせられます。この様な事が常態化すれば、シンプルで歌い易いメロディ、美しい和声、ノリの良いリズム…、誰もが共感し、理解し得る音楽は、今後一切書く事が出来ないという事になります。“似ているor似ていない”をデジタルで判断されてしまう時代では、創造芸術は生きてゆけないでしょう。
素材の創造元が異なれば別物であるという考え
過去のすぐれた作品に影響を受けて自作品の糧にする事は、作品制作の軌跡において、重要な基盤と成り得るものです。私も曲を書く際には、過去の多くの作品を聴いて共感した点を収集し、纏めて、それを自分の中に取り込んだ物を楽譜に記載していきます。ですから、その細かな素材一つ一つを見れば、過去の作品の何れかに“類似していると言えなくも無い”点は多々あると思います。その小さな一つを取り上げて“パクリ”と言われてしまうと、Jpopをはじめ世界中でヒットしている音楽の殆どが盗作となってしまうでしょう。異なる境遇から生まれた2つの素材は、それらが持つ主旨や理屈が異なる訳ですから、見た目のパーセンテージだけで判断されるべきものではありません。
複雑化してゆく創造的芸術作品
つまり何物にも似ていない様にする為には、多くの要素を取り入れて、素材そのものを複雑化させるしかないでしょう。「数」は無限ですから、素材を形作る要素の数を増やし、安易に理解出来ない様にしてしまう。「いわゆる“現代音楽”の価値と、Jpopの再現芸術化について」の記事でも書きましたが、こういった現代音楽が複雑化して訳の分からない音楽になっているのも、既存の作品に似てしまう事を恐れた作曲家の防衛策の一種ではないか、と個人的には思っています。退屈な“不協和音の音楽”が、得体も知れない音符の並んだ楽譜と難解な楽曲解説によって、漸くその概要が理解できる、というのも納得出来ます。
今回の騒動は、人類の創造し得る素材の“枯渇”が迫ってきている事を物語っている様な気がします。今後、美術にせよ音楽にせよ、“シンプルで親しみ易い”を持ち合わせる「新たなる創造物」の誕生は、誰も望めなくなってしまうかもしれませんね。
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