2016年に亡くなった作曲家【ブーレーズ】が伝えたかった「美学」とは何か?

フランスの作曲家Pierre Boulez(1925~2016)が今月5日に亡くなった様です。ヤフーニュースを見て知りました。

ブーレーズと言えば、ストラヴィンスキー作品の名指揮者としても名高いと思いますが、メシアンやクセナキス等と同様に前衛的な作品を数多く残していますね。氏については、現代にまで活躍したフランスの歴史的な作曲家として、私は認識していました。

20世紀まで続いた「西洋音楽史」の一旦を担う歴史の“生き証人”がまたもやこの世を去ってしまった事は残念ですが、氏と同じ時代を過ごせた事を嬉しく思いつつ、まずはご冥福をお祈り致します。

管理された偶然性

ブーレーズは、自身の作品の中で「管理された偶然性」の美点について唱えていますが、これについては多くの楽曲に当てはまるものだと思っています。氏は、≪4分33秒≫で有名なジョン・ケージの実験的な試みによる、偶発的な音楽に反発していたとの事ですが、確かにコントロールのきかないもの、極端に言えば、自ら操作する部分を全く持たない作品は、特定の作曲者である事の必要性すら無い様に思えます。

私にとってブーレーズの作品は、和声やリズム感が皆無の前衛的な音楽である事から、全くもって方向性が異なる為、これまで彼の作品を理解しようと研究を試みた事が無いのですが、彼の提唱する「管理された偶然性」に関しては、私も賛同している所があります。

音楽における「一定の管理」の大切さ

例えば、Jazzの様なインプロヴィゼーションが主体の音楽であっても、テーマに添った「コード」を基にアレンジをしている訳ですから、全プレーヤーが完全に好き勝手な演奏をしたのでは音楽は成り立ちませんね(それに近い曲も無くはないですが…)。これも「管理された偶然性」の一つに当たるのではないでしょうか。

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私も作曲を行う過程において、即興演奏をモチーフとして扱う場合があります。即興モチーフが成す偶発的な音や旋律には、普段頭を掻き毟りながら搾り出しても決して出て来ない、魅力的な音楽が生まれる場合があります。

しかし、それを何の加工も無いまま無秩序に並べただけでは曲になりませんので、曲の統一感を考えた上でモチーフを加工し、「楽式」に添った構成に当てはめて完成させます。こうする事で、偶発的で斬新な音を含みながらも、統制された美しさを持ち合わせる理想の音楽に近づける事が出来るのです。氏の提唱する「一定の管理」でもって、即興モチーフを絶妙なさじ加減でコントロールする事が、究極の「美」に繋がるものだと信じています。

世界に向けたメッセージとして捉える

少し話が大きくなりすぎるかもしれませんが、氏の提唱する「管理された偶然性」を“美”とする発想は、今こそ世界が再認識すべき事だと思っています。連日、世界の至る所から紛争の便りを耳にしますが、たとえ行動や言論、宗教の自由が許されている国であっても、一定の規律に基づいた統制が無ければ、その秩序を守る事は不可能ですし、人々の笑顔、幸せ、平和といった「美」の部分を保つ事は出来ません。

ブーレーズ

私の考えるブーレーズの「偶然性」には2つの意味があり、1つはコントロールのきかない「無秩序」な状態を指し、もう1つは個々の個性の尊重で、予想だにし得ない特徴であってもそれを寛容な心でもって受け入れる事で、互いに傷つけ合う事なく尊重し合う社会が構築されていきます。

これらを絶妙な塩梅でもって統制する事により、個々の「美」を尊重した理想の形を作る事が出来るのだと思います。

今日の様な「統制」と「不規律」が両極端な時代では、真の平和は見えて来ないでしょう。氏の美学をこの様に捉える事が出来れば、世界の紛争も少しは収まるのではないかと思うのですが…。

今後“出版”に向けた話は出てくるか?

「管理された偶然性」が提唱されている作品の一つに≪ピアノのためのソナタ第3番≫がありますが、この作品の楽譜は一部の楽章(format)を除いて未だ出版されていない楽章があります。しかし、これが氏の作品の特徴における「ワーク・イン・プログレス」によるもので、氏の“没”をもって完結したと捉えるならば、今後すべて揃った楽譜の出版に向けた話が上がってきても、おかしくは無いでしょう。

既存のピアノソナタ第3番は「Universal Edition」から出ていますので、今後注目していきたいと思います。「ザ・前衛的」とも言えるブーレーズの作品ですから、CDを聴いただけで理解するにはあまりにも無謀な挑戦です。全て揃った楽譜が、早く手ごろな値段で手に入る様になれば良いなと思っています。

以上、ブーレーズ氏を偲んで、同氏の美学についての考えをお伝えしました。

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